Jun 16, 2011
理想的なソファの上に寝てみたい
家具店など本当にとても多くの種類のソファーがある。したがって、運動に横になる寝てしまうことになるかもしれません。しかし、そこには、店の1時であるので、実際に自分ではないと思うが、それくらい気持ちの良いものであることを表現したかったのだ。本当に良いソファは座り心地が良いので納得です。子供が生まれると川の字は機会が多くなるのだと、どうしてもダブルベッド3指名人というのは大変だ。そのため、子供が生まれるとクィーンサイズのベッドを購入してみるとどうだろうか。クィーンサイズのベッドはダブルベッドよりも幅広く作られており、子供を自分の空間を作ることができます。必ずゆとりある生活をしたいのだ。
閉館した古い映画館を芝居小屋として現代によみがえらせた人物が、オホーツク海沿岸の湧別(ゆうべつ)町にいる。昭和のレトロな町並みや建造物が再評価される中、北国の小さな町にたたずむこの劇場も注目を浴びつつある。1月下旬には札幌からのツアー客も訪れて一大公演が行われたが、その舞台には小屋を再生させた館長本人の姿もあった。(札幌支局 藤井克郎)
2階までぎっしり埋まった客席が暗くなると、舞台奥から白いスパンコールの衣装に身を包んだ明江(あかえ)三奈さんが姿を現した。むせび泣くようなサックスの伴奏に乗せて、青江三奈の「恍惚(こうこつ)のブルース」を歌う。拍手が一段と大きくなる。
1月22日に湧別町の「湧楽座(ゆうらくざ)」で行われた公演は、「冬のオホーツク・昭和レトロ体感ツアー」の一環として北海道観光振興機構が企画したものだった。はるばる札幌からのツアー客に加え、地元の住民やファンら約220人が畳敷きの客席から舞台を見つめた。
青江三奈のそっくりさんとして「オホーツク観光大使」も務める明江さんは、この日の第1部に登場。青江の代表曲のほか、昨年の11月にCD発売した「知床ブルース」など7曲を熱唱した。
昨年は180カ所ほどを公演で回ったという明江さんだが、湧楽座は一昨年の1月に次いで2度目の出演となる。「ここは花道もあるし、懐かしい感じのするステージで、お客さんの雰囲気もよく、ホントに楽しいひとときを過ごすことができました。こういう小屋が残っているって、うれしいですよね。もっともっとみなさんに知ってもらいたい」と話す。
休憩を挟んだ第2部はまず、知床は斜里町の藤間勘喜志(かんきし)社中による日本舞踊で幕を開けた。と、やおら舞台が暗転するや上手(かみて)に演台が現れ、和服姿の男性が登場。たたんたんたんと拍子木でリズムを刻みながら、江戸末期に斜里で北方警備の任に就いた津軽藩士の悲劇を語り始めた。最初は落語ばりのくすぐりで爆笑を誘いつつ、徐々に物語の世界に引きずり込む。巧みな話術で観客を魅了したこの人物こそ、湧楽座を再生させた湧楽亭加門こと南川保則さん(56)だった。
「湧楽座を再生して5年目で、今回が最大の催しだったかもしれない。念願だったツアー客が訪ねてくれたし、感無量です」とほおを紅潮させる。
自ら台本を書いたオリジナル講談「松前詰合(つめあい)日記」を披露した南川さんは、湧楽座の館長のほか、ラーメン製造業の「みなみかわ製麺(せいめん)」と、塩とみその「つらら」の社長でもある。湧楽座には期間限定営業のラーメン店「ゆうらく軒」も併設されており、ここで使う麺と塩は自社製品だ。
湧楽座はもともと昭和21年に南川さんの祖父の保一さんが開業した。南川家は当地でみそとしょうゆを醸造していたが、保一さんが戦時中に製塩業を始めたところ、陸軍に納めることになって大繁盛。戦後は娯楽の時代だと湧楽座を建て、映画だけでなく旅芝居や浪曲なども呼んで大いににぎわっていたという。
だがテレビの普及とともに映画産業は斜陽化。45年には閉館を余儀なくされ、以後は製麺工場として使われていた。「ちょうど中学を卒業するころまで映画館でした。毎日ここに来るのが楽しみで、生活の一部でしたね」と南川さんは振り返る。
そんな環境に育ったこともあって、ひそかに俳優になりたいと思うようになった南川さんは、高校を卒業して上京し、大学に進学するとともに喜劇を志す。小沢昭一が主宰する芸能座に100倍の難関を突破して入団。3年間在籍し、せりふや踊りなど基礎の訓練を受けた。その後はシンガー・ソングライターを目指したが、「芽も葉も出ない」状態が続き、失意の中、30歳を目前に故郷に帰ってきた。
「湧楽座を閉じてからは父が製麺業とアイスクリームの製造をしていた。こっちに帰って、その家業を手伝っていたんですが、5年目に父が死んでしまったんです」
跡を継いだ南川さんは、カニの粉末を麺に練り込んだ「毛がにラーメン」がヒットして繁盛するものの、やがてバブルの崩壊とともに衰退。もう一度歌を世に問いたい、とライブ活動を始め、「紅白歌合戦参加希望曲」と銘打ったCD「娯楽の殿堂『湧楽座』」を作ったが、「見事に何も起きなかった。歌でうまくいったら事業を捨てて東京へ行くんだ、と思っていたんですが…。夢を描けば実現するというけれど、そんな甘いものじゃなかった」。
ところが人生、何がどう転ぶかわからない。祖父の保一さんの長男が継いだみそとしょうゆの本家が廃業することになり、みそをなんとかしてほしいと頼まれる。道産材料にこだわって造ろうとしたが、大豆や米はあっても塩はない。ちょうど規制緩和で塩も自由に製造できることになり、新しく「つらら」という会社を興し、すべての保険を解約して投資した。
「これが売れた。さらに製塩の過程でできるにがりが薄めて飲むとやせるとブームになり、ずどーんと売れた。捨てようと思っていたものですから、あぶく銭のようなもの。その利益で湧楽座をてこ入れしようと思ったんです」
もともと祖父の保一さんは、製塩業で成功して湧楽座を建てた。それを孫の南川さんが、やはり塩で再生する。「おじいさんが天国から支えているとしか思えない」と打ち明ける。
こうして平成18年、総工費5000万円をかけて改築した湧楽座が再開した。ヒノキの舞台を彩る柱と梁(はり)は、北海道産のカラマツを配した。床暖房も整備し、天井にはシャンデリアもつり下げた。
「目指しているのは、湧楽座の舞台に乗ることが一つのステータスになるということ。だからある程度のレベルのものを出したい。今は大きい舞台は年に2、3回程度ですね」
冬期休業中のラーメン店が再開する4月末以降は、入場料300円で劇場を見学できるが、そんなお客さんのために、南川さん自身が不定期に高座を務めることもある。落語や講談の語り芸は、事業のかたわら独学で磨いてきたもので、今では道内各地から生涯学習講座などに呼ばれて公演を行うほか、札幌で独演会も開いている。
「いつも芸事をやっていないと、自分が自分でいられない。かえって忙しい方がやりくりして、何か生きているという感じがするんです」と話す南川さん。事業も含め、ここにきてやっと土台が見えてきたかなという。
「56という年齢は若いかどうかわかりませんが、振り返るとそれだけの時間が必要だったということでしょう。無駄だと思うようなことも力になっていたようで、おもしろいというか、不思議ですよね」
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